或る夢の中の手の話

御剣怜侍は夢を見るようになった。それは彼の幼少のトラウマによって見続けてきた悪夢ではなく、ただの夢だった。
ただの夢のなかで、御剣はどこかに座っていた。執務室に置いてある、御剣の体を丸ごと収めてしまう回転椅子でも、自宅の一人で使うにはいささか大きすぎるソファでも、愛用している車の運転席でもない。どこかふわりとして落ち着かない、それでいて立ち上がるのが嫌に成る程心地の良い場所だった。
御剣は毎晩そこに座って、何を考えるでもなく、ぼんやりとしていた。普段現実の世界にいるときとは違い、そこでは何も考える必要がなかったから、それはある意味非常な幸せだった。
しかし、そこにいる時間は永遠であるのと同時に一瞬であった。
安定感に欠けるその永遠を感じられるのは、必ずその夢の最後に現れる手が自分に向かって迫ってくる、その瞬間だけだったのだ。

あの手は誰の手だろうか。
御剣はいつものように紅茶を楽しんでいる最中、唐突にそんなことを思った。いままで全く意識などしていなかったのにもかかわらず、ふと気がついてしまえば、それはなにかとてつもなく重要なことに感じられた。
カップを置き、自分の手を眺める。
違う、これではない。自分のは華奢で骨張った冷たい手だ。夢のあれはもっと、がっしりとしていて血色が良く暖かそうだった。この手はほど遠い。曖昧な記憶を頼りにそんなことを考える。
御剣はしばらく自分の手を見つめていたが、すぐにその手で携帯を手に取った。
電話の相手はすぐに執務室にやってきた。
「糸鋸刑事、ちょっと君の手をみせてくれたまえ」
「て、っスか?」
「そうだ」
御剣は尊大に頷く。普段と様子の違う上司の態度に、体の大きな刑事は首をかしげつつも、惜しみなく自分の手をさしだした。
ごつごつしたなんとも無骨なそれを、御剣は表と裏とぶつぶつ呟きながら観察し、やがて興味を失ったように、ぽとりと机の上に放りだした。
「あの、どうっスか?」
「どう、とは?」
「自分の手相っス」
糸鋸は上司が手相占いをしていると思ったようだった。期待と不安をにじませた眼差しを無視して、御剣は考えた。
自分が普段見る手といえば、自分と役に立たない部下のものくらいしか思い当たらない。しかし、どちらも自分の夢のあれとは違った。ではあれは誰の手なのだろうか。自分をいつも夢から現実へ連れ戻すのは誰なのだろうか。
知りたい。そして、あの手が欲しい。
御剣の思考はそのことでいっぱいだった。

三日後、御剣は幼なじみの二人に飲みに誘われた。
この間から、ずっと夢の中の手の正体が気になってしかたがなかった御剣は、友人二人の手を検証するべく、少々無理矢理に仕事を終わらせた。
矢張の手は、あっという間につぶれてしまった彼が眠っている間に確認した。予想はしていたが、やっぱり矢張の手は違っていた。
あとは成歩堂である。
「手をみせてくれ」
「はぁ?」
奇妙な頼み事に見えるのだろうなと御剣は思いつつ、了承もなしに成歩堂の手を取った。
大きさマル、指の長さ太さマル、色味サンカク。
いつもは自分と対峙し、法廷で矛盾を指摘する手をこうして間近に見るのは不思議な物だった。御剣はううむと唸る。
「微妙だな」
「なにがだよ」
酒をあおりつつ、御剣はなんとなく成歩堂の手も違うと思った。そして、成歩堂の手であったら良かったのに、と思った。なぜだかわからないが、アルコールで混沌としてくる意識の中で、御剣はそう切実に考えた。

夢なかにいる。また、夢の中にいた。
御剣はやはり座っていた。ゆっくりと呼吸すると、体の芯から溶けていきそうになる。
目の前にいつも通り、手が現れた。優しそうな五本の指はゆっくりと伸びてくる。
いつもならばなにもしなかった。なにもせず、ただその手で現実に引き戻されるだけだった。しかし、今度ばかりはそれを許したくなかった。
御剣はそのその夢の中で初めて立ち上がって、無我夢中で自分の手を伸ばした。手が自分を捕まえる前に、自分がその手を捕らえなければならない。その手の先が誰なのか、知らなければならない。
手の指先と、自分の指先が触れる。
御剣はその手を掴んだ。
「うわっ!」
一瞬遅れて間抜けな叫びが響き渡った。
「なんだよ御剣!びっくりするだろ!」
「あった」
「えっ?」
御剣は自分が掴んだものを見つめた。
「やっぱり君の手だった…」
成歩堂の手。
この手をずっと探していた。この手が、一番欲しかった。
ずっと前から御剣怜侍は恋をしていたのだ。


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